2026.07 更新
寄稿コラム:居合から見出されること
形稽古というのは、何度も同じ技の形を繰り返し練習することにより、身に染み込ませることで、不意の事態にも対応できるようにするための稽古法です。またその整合性を確かめるために組太刀稽古を行います。では形稽古・組太刀稽古を行っていればそれで良いのでしょうか。不意の事態にも冷静に対応する精神面はどのように養うのでしょうか。今回は居合における「心法」の重要性について、誠至館 浅野様にお伺いしました。
居合から見出されること
1.武士と居合 〜武士は「刀を抜くことはできなかった」?!
「居合」や「剣術」が流派として確立したのは室町時代(1336年 〜 1573年)です。特に戦国時代という世の中を背景にして多くの流派が始まりました。私が継承している無双直伝英信流は、林崎 甚助 源重信(1542年〜?)を流祖としています。流祖が生きた時代は、織田 信長が今川 義元を破った桶狭間の戦い(1560年6月12日)の頃となります。
その後、居合が流派として昇華されたのは江戸時代(1603年 〜 1868年)です。「居合」と「剣術」は何が違うかというと、「居合」は鞘に納まった刀を一瞬で抜いて相手を斬る技術であるのに対して、「剣術」は刀を鞘から抜いた後に相手と戦う技術だということです。戦国時代を経て、徳川の時代となり、武士はいわゆる『戦士』の側面から、『行政官、司法官』といった社会を治める為政者としての側面が強く要請される立場となりました。
武士はその意味で大きな権力を持ったわけですが、権力を持った以上に大きな義務を負っている存在でありました。それは、一言でいえば「人の上に立つものとして範となる存在」でなければならない、もっとわかりやすく言えば「武士として生きなければならない」ということです。
彼らは、武家諸法度や藩法などの武家法に拘束されるとともに、「武士道」という不文律に常に規律され、廻りから監視される存在でありました。その彼らが、「気まぐれに刀を抜いて」民百姓を斬るなどいうことが許されるはずもありません。もしそのような振る舞いがあれば、「御家断絶」や「切腹」まで覚悟しなければなりません。武士は、ある意味で「刀を抜くことはできなかった」存在であったといえます。
しかし、その反面、義務として「刀を抜かなければならない」場合がありました。それも「武士として」という強力な規範的側面を伴っています。私が居合の流儀の先輩から聞いた話や歴史を検証した結論として、「武士が刀を抜かなければならない」場合とは、次の三つの原則があります。
(1)上意討ち
これは藩主から「討てと命じられた場合」です。武士はそもそも主君に仕える戦士であって主君から「戦え」と命じられれば「刀を抜いて」戦わなければなりません。
(2)仇討
但し、これは藩から許可を得て行われなければなりません。
(3)介錯
「介錯」はご存じの通り、切腹する侍の苦痛を速やかに終わらせるために首を斬ることです。
「武士が刀を抜かなければならない」原則は以上ですが、原則があれば、当然ながら例外があります。それは、「相手から斬りつけられた場合」です。
侍が刀で斬りつけられた場合、刀も抜かずに一方的に斬られた。ましてや、逃げようとして背中を斬られて死んだとあれば、武士として不名誉極まりないことになり、末代までの恥となります。藩主の命令で相手が斬りに来ようが、武士として立ち向かわなければならなかったのです。
介錯は別として、武士が「刀を抜かなければならない」場面のほぼ全てというのは、こういった「上意討ち」と「その反撃」即ち、どちらも「刀を一瞬に抜いて相手を斬る」場合だということです。江戸時代の侍にとって、「剣術」はもとより、実は「居合」の場面を想定した技術の習得が必要だったのです。「居合」は剣の道における脇役などではありません。寧ろ武士にとって主役だったのです。
2.居合において目指すもの〜「離れの極み」


3.居合稽古の現代的意味
(原文)
腰間秋水一揮揚
自是先生養老方
二豎多年侵不得
知他宝剣吐龍光
此居合之詩
御一笑可被下候
(現代語訳)
腰に差した刀を一たび抜き放てば
これにより先ずは老を養う健康法になるのである。
私は長年、この稽古により病気になったことがないのである。
更にこの宝剣を(ひとたび放てば剣先より)龍が光を放つ如き威力を発揮するのである。
これは居合を漢詩にしたものです。
どうぞお笑いくだい。
※「秋水」とは「刀」の美称、「二豎」とは「私」をへりくだった意味

誠至館の皆さん
浅野氏による無双直伝英信流 居合演武
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誠至館 紹介ページ※本記事は、発行元の許可を得て掲載しております。また記事の内容は、寄稿頂きました 浅野康人様の意見であり、居合道 道場案内所としての意見ではございません。
